死について (On Death)

 在原業平 (825-880) が『古今和歌集』で詠んだ有名な和歌に「つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」がある。小学生の頃から知っていたが、死を間近にしている今では、この歌に心から納得する自分を見出す。私の義母が 95 歳で元気なので、まだまだ私は死ぬことはないと楽観しているが、眠れない夜にはこの和歌が頭の中で繰り返し現れるようになった。

 私は神経質な青年時代であったので、死についてはよく考えていた。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』はよく読んでいたし、大学に入るときもこの死の問題を正面から考えてみたかった。大学入学時のオリエンテーションで、先輩に「死とは何か」と質問したこともあった。しかし他の人と同じように、日々生きることに忙しく、いつしか死への思いは薄くなっていた。父母が死に、兄弟姉妹が死んでも、まだ実感として死は心に迫ってこなかった。

 数年前に大病をしたときに、ようやく私は死に近づいているのだという実感を持った。しかし大病が小康を得るとまた死は遠くになっていった。2020 年は新型コロナウイルスで世界中が右往左往した年として記憶されると思うが、このウイルスは老年には死病となるので、また死を意識するようになった。

 その時、偶然に立花隆の『死はこわくない』 (文藝春秋、2018 年)を読んでみた。そこに哲学者エピクロスの言葉が紹介されていたが、彼は死について「死というものは存在しない。なぜなら、我々が存在するかぎり、我々に死は存在しない。我々に死が存在するとき、我々は存在することをやめているからである」と語っている。ネットでエピクロスを検索していると、次のような面白い英文に遭遇した。次に紹介してみよう。

Epicurus believed, contrary to Aristotle, that death was not to be feared. When a man dies, he does not feel the pain of death because he no longer is and therefore feels nothing. Therefore, as Epicurus famously said, “death is nothing to us.” When we exist, death is not; and when death exists, we are not. All sensation and consciousness ends with death and therefore in death there is neither pleasure nor pain. The fear of death arises from the belief that in death, there is awareness. (https://epicurus.today/the-epicurean-attitude-to-death/)

(訳) アリストテレスとは対照的に、エピクロスは、死は恐れるべきではないと信じていた。人が死ぬとき、人はもはや存在しないし何も感じないので、人は死の苦痛を感じることはない。それゆえエピクロスは有名な言葉を吐いた。「死は我々にとって取るに足らないものだ」と。我々が存在するとき、死は存在しないし、死が存在するとき、我々は存在しない。すべての感覚や意識は死と共に終わり、死の中では喜びも苦痛もない。死への恐怖は、死んだときに意識が存在することを信じるから起きるのである。

 このように考えると気が楽になるが、宗教を持たない私は、死後は自然に帰るものと考えている。意識はないにしても、自然の中で粒子として永遠に存在すると確信している。これまで無数の人が生き死んで行ったが、私もその自然のサイクルに入っていくのであるから、寂しさも苦痛も感じることはない。突然、粒子という言葉を使ったが、これは柳澤桂子氏の『生きて死ぬ智恵』 (小学館、2004 年)に、般若心経の訳として、「お聞きなさい/ あなたも、宇宙の中で/ 粒子でできています/ 宇宙のなかの/ ほかの粒子と一つづきです/ ですから宇宙も空です/ あなたという実体はないのです/ あなたと宇宙は一つです」と書かれているからである。

 粒子として宇宙と一体になることが死であるならば、これほど安心できることはない。

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