村上春樹作品の英訳 (Colorless Tsukuru Tazaki and his Years of Pilgrimage)

村上春樹作『色彩を持たない田崎つくると彼の巡礼の年』の英訳版 (訳者 Philip Gabriel)
村上作品には、考えさせられる作品が多いが、私が繰り返し読む作品は、『色彩を持たない田崎つくると彼の巡礼の年』(文藝春秋、2015年)である。この作品には現実離れした人物は登場しない。『1Q84』(新潮社、2009年から2010年) の「ふかえり」や『騎士団長殺し』(新潮社、2017年) の騎士団長は、現実的な描写が与えられてはいるが、私たちの日常生活ではあまり遭遇しない人物である。『色彩を持たない田崎つくると彼の巡礼の年』では、私たちと等身大の登場人物が現れ、私たちの日常生活に起こり得るような出来事が描かれている。また謎解きのわくわく感も与えてくれるが、それよりも田崎つくるの精神の成熟が見事に表現されている。
まだこの作品を読まれていない方のために、詳しいあらすじは書かないほうがよいと思われるが、村上作品の素晴らしさを納得してもらうためには、ある程度のストーリーは頭に入れてもらうほうがよいであろう。
主人公の田崎つくるには、高校時代に仲の良い友達が四人いた。赤松慶、青海悦夫、白根柚木、黒埜恵理である。四人とも名字に色が入っているが、田崎つくるには入っていないので、「色彩を持たない田崎つくる」となる。
四人の高校時代の友達は名古屋に残って、それぞれ大学に進むが、田崎つくるは「駅」を作りたいがために、その道の専門の教授がいる東京の大学に入る。そして休みになるたびに、名古屋に帰って四人との交流を楽しんでいた。しかし、大学二年の夏休みに、つくるが名古屋に帰ると、四人の友達は彼に会おうともしなかった。その理由を聞くことが怖くて、つくるは四人の友達に会うこともなく、東京へ戻る。
その出来事から、つくるは死の誘惑を感じて、苦しい時期を過ごし、三十六歳になって、沙羅という恋人に出会う。二歳年上の沙羅は、グループから追放された理由を、つくるが知らなければ、二人の関係が進めないと語り、つくるのために四人の居場所をインターネットで調べてくれる。
つくるは名古屋でレクサスを販売している青海悦夫に会い、次に同じ名古屋で人材育成事業を展開している赤松慶に会う。白根柚木はすでに死んでいた。最後に、フィンランドに住んでいる黒埜恵理に会いに、わざわざフィンランドに行く。
フィンランドの湖畔の別荘で交わす、つくると黒埜恵理の会話が、この小説の圧巻であると思う。次にその部分を引用してみよう。白根柚木が、つくるからレイプされたと嘘を言ったため、つくるがグループから追放されたことを聞いた後、白根柚木がよく弾いていた曲を聴きながら、つくるはある人生の真実に辿り着く。
そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で田崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。 (p.350)
これがどのような英文に翻訳されるのであろうか。Philip Gabriel の訳で見てみよう。
And in that moment, he was finally able to accept it all. In the deepest recesses of his soul, Tsukuru Tazaki understood. One heart is not connected to another through harmony alone. They are, instead, linked deeply through their wounds. Pain linked to pain, fragility to fragility. There is no silence without a cry of grief, no forgiveness without bloodshed, no acceptance without a passage through acute loss. That is what lies at the root of true harmony. (p.248)
“it” はこれまでつくると黒埜理恵が話した内容であるが、”no acceptance without a passage through acute loss” は、つくるのこれまでの苦痛から受容にいたる経緯をよく表現している。高校生時代の楽しく幸せな調和は、一度破壊され、グループのメンバーに鋭い苦痛を与えて、最後に本当の調和に達することができる。しかしその時には、グループのメンバー全員は、別々の道を歩いている。さらに白根柚木はすでに死んでいる。
そしてこの後、つくるは自分が一方的な被害者ではないことを悟る。
つくるは言った。「僕はこれまでずっと、自分のことを犠牲者だと考えてきた。わけもなく過酷な目に合わされたと思い続けてきた。そのせいで心に深い傷を負い、その傷が僕の人生の本来の流れを損なってきたと。正直言って、君たち四人を恨んだこともあった。なぜ僕一人だけがこんな酷い目にあわなくちゃならないんだろうと。でも本当はそうじゃなかったのかもしれない。僕は犠牲者であるだけじゃなく、それと同時に自分でも知らないうちにまわりの人々を傷つけてきたのかもしれない。そしてまた返す刃で僕自身を傷つけてきたのかもしれない」(p.362)
この心を抉るつくるの悟りは、どのような英文であろうか。同じPhilip Gabrielの訳で見てみよう。
’I’ve always thought of myself as a victim,’ Tsukuru said. ‘Forced, for no reason, to suffer cruelly. Deeply wounded emotionally, my life thrown off course. Truthfully, sometimes I hated the four of you, wondering why I was the only one who had to go through that awful experience. But maybe that wasn’t the case. Maybe I wasn’t simply a victim, but had hurt those around me, too, without realizing it. And wounded myself again in the counterattack.’ (p.256)
「そしてまた返す刃で僕自身を傷つけてきたのかもしれない」は日本語独特の表現なので、どのように英文に訳されているか、非常に興味があったが、” And wounded myself again in the counterattack” と違和感のない英文に訳されていた。翻訳者の日本語と英語の実力は相当なものだと感心した。
つくると黒埜恵理の会話の最後で、新しい恋人沙羅のことを話し、この恋愛に自信が持てないことを告白すると、黒埜恵理はつくるを次のように励ます。
「ねぇ、つくる、一つだけよく覚えておいて。君は色彩を欠いてなんかいない。そんなのはただの名前に過ぎないんだよ。私たちは確かにそのことでよく君をからかったけど、みんな意味のない冗談だよ。君はどこまでも立派な、カラフルな田崎つくる君だよ。そして素敵な駅を作り続けている。今では健康な三十六歳の市民で、選挙権を持ち、納税もし、私に会うために一人で飛行機に乗ってフィンランドまで来ることもできる。君に欠けているものは何もない。自信と勇気を持ちなさい。君に必要なのはそれだけだよ。おびえやつまらないプライドのために、大事な人を失ったりしちゃいけない」 (p.374)
‘Tsukuru, there’s one thing I want you to remember. You aren’t colorless. Those were just names. I know we often teased you about it, but it was just a stupid joke. Tsukuru Tazaki is a wonderful, colorful person. A person who builds fantastic stations. A healthy thirty-six-year-old citizen, a voter, a taxpayer ― someone who could fly all the way to Finland just to see me. You don’t lack anything. Be confident and be bold. That’s all you need. Never let fear and stupid pride make you lose someone who’s precious to you.’
フィンランドから帰って、つくるは沙羅に会う約束をする。しかし作者の村上春樹は、つくると沙羅がどのような結末を迎えるか明示していない。ただ、心の葛藤に耐えきれなくなったつくるが午前 4 時に沙羅に電話をしたときの、彼女の応答から二人が幸せなエンディングを迎えるだろうと推測できるだけである。
(参考文献)
村上春樹『色彩を持たない田崎つくると彼の巡礼の年』(文藝春秋、2014年)
Philip Gabriel (tr.), Colorless Tsukuru Tazaki and his Years of Pilgrimage (Harvill Secker, 2014)


