シェイクスピアの歴史劇 (Shakespeare's Histories)
材源であるホリンシェッドとホール
シェイクスピアの作品には、喜劇、悲劇、ロマンス劇がありますが、イギリスの歴史を扱った作品である歴史劇もあります。シェイクスピアが用いた材源は、ラファエル・ホリンシェッド (Raphael Holinshed, ?-?1580) の Chronicles of England, Scotland, and Ireland (1577 年、増補 1587 年) と エドワード・ホール (Edward Hall, 1496-1547) の The Union of The Two Noble and Illustre Families of Lancaster and Yorke (1548 年) が中心で、シェイクスピアはある箇所では、種本とほとんど同じ表現を用いているところがあります。
シェイクスピアが歴史劇を作ろうと考えたのは、当時のイギリスが三等国から一流国家へ成長しつつあったからです。イギリス国民は、その時期、自分の国の歴史に興味を持ち始めていました。そのきっかけになった事件は、1588 年に、スペインの無敵艦隊 (The Invincible Armada) を、イギリス海軍が打ち破った海戦です。これを契機にイギリスは、政治的にも経済的にも、一流国になり、それと比例して、歴史劇が作成されるようになります。
マーローの影響
それに先輩作家である クリストファー・マーロー (Christopher Marlowe, 1564-1593) の影響もあります。彼の作品『エドワード二世』 (Edward II, 1592 年) は、ロンドン市民から熱狂的な支持を受けました。後から触れますが、この『エドワード二世』という作品は、シェイクスピアの 『リチャード二世』 (Richard II, 1595年) に大きな影響を与えています。
マーローやシェイクスピア以前の演劇は、「神秘劇」 (The Mystery Plays) 、「奇跡劇」 (The Miracle Play) 、「道徳劇」 (The Morality Play) という 3 つのタイプの演劇がありました。
キリスト教の教理を、人々にやさしく解説したものが多かったようです。言い換えれば、人間を描いていなかったと言えます。人々の関心が、宗教から人間に移って始めて、エリザベス朝演劇が盛んになってきたと言えます。宗教から人間への興味の変化は、これまでの価値観や宗教への批判精神を芽生えさせ、より人間中心の演劇を生じさせました
第 1 四部作と第 2 四部作
シェイクスピアの歴史劇には、次のようなものがあります。『ヘンリー六世』 (Henry VI, 1 部, 2部, 3部, 1589-91) 、『リチャード三世』 (Richard III, 1592-93 年) で、これが第 1 四部作と呼ばれるものです。『リチャード二世』、『ヘンリー四世』 (Henry IV, 1部、2部, 1596-98) 、『ヘンリー五世』 (Henry V, 1599 年) は、第 2 四部作と呼ばれています。注意してほしいことは、シェイクスピアは、新しい時代の歴史から書き始め、その後に古い時代の歴史を描いたことです。理由はいろいろ考えられますが、若いシェイクスピアには、ヨーク家とランカスター家の争いに興味があったということでしょう。
第 1 四部作は、「統一がない」という印象を受けますが、彼の興味は、歴史をそのまま呈示したかったことだと思われます。当時の一般人は、自国の歴史についての関心はありましたが、正確な知識はなかったと思われます。識字率も低く、シェイクスピアの父親であるジョン (John Shakespeare, 1531-1601) も、字が書けなかったことは有名です。そこで一般人に分かりやすくまた面白く、イギリスの歴史を示すことに、シェイクスピアは興味を持ったと思われます。
第 1 四部作の最後の作品は、『リチャード三世』ですが、この作品でヨーク家とランカスター家の統一の象徴的人物として、ヘンリー七世 (Henry VII, 1457-1509) が登場します。第 1 四部作のあらすじは、ヨーク家とランカスター家の争いと融和であると要約できますが、最後には両家の和解で締めくくり、イギリスの繁栄を示唆して終わっています。
第 2 四部作は 『リチャード二世』で始まります。この作品に登場する リチャード二世 (Richard II, 1367-1400) は「王権神授説」 (the divine right of kings) の理念からまったく外れた人物です。政治的には優柔不断で、臣下である ボリンブルックから王権を奪われ、最後には殺害されます。王権を奪ったボリンブルックは、後にヘンリー四世 (Henry IV, 1367-1413) となりますが、不正な手段で王権を奪ったことに、一生良心の呵責を感じ、贖罪のため十字軍遠征を熱望します。
しかし、さまざまな内紛のために十字軍遠征ができないので、精神的に苦しい一生を送ります。第 2 四部作の最後の作品 『ヘンリー五世』で、ヘンリー五世 (Henry V, 1387-1422) はフランスの王権を主張して、フランスを攻撃することによって、イングランド国内の精神的調和を果たします。すなわち、国民の目を海外に向けることによって、国内部の人心の統一をはかったのです。第 2 四部作の最後で、ヘンリー五世を描いたシェイクスピアの意図は明確です。過去の偉大な王を、イギリス国民に示すことによって、イギリスの偉大さを観客に植え付けたかったのです。
第 2 四部作の特徴
さて、第 2 四部作の 『リチャード二世』と、そのあとの作品『ヘンリー四世』 (1 部、2 部) との質的差異には、驚かざるを得ません。『リチャード二世』の単純な構成とは異なり、『ヘンリー四世』では、後にヘンリー五世となるハル王子の放蕩生活と、父王であるヘンリー四世の政治的苦闘が同時進行で描かれ、一方が他方を照射する形を取っています。ハル王子の放蕩生活には、真実と虚偽の姿が混在していますが、ヘンリー四世の政治にも大きな弱点があります。
ハル王子の偽りは、彼がいつかは放蕩の仲間を見捨てようと決意しているところであり、ヘンリー四世の大きな苦悩となる政治的弱点は、正当な王であったリチャード二世を廃位して、彼が王位を奪ったことです。そのため、すべての彼の政治的行為は、自己の政権の正当化に集中せざるを得ません。
このように、『ヘンリー四世』において、一つの視点・焦点で歴史やその中で動く登場人物を描写していません。このような手法で、前作の『リチャード二世』より、はるかに深い歴史観を観客に与えていると思われます。『リチャード二世』では、全ての焦点が、主人公リチャード二世に収斂し、焦点が散乱することはありません。後のヘンリー四世であるボリンブルックに、一時的に視点は移ろうと、それはリチャード二世との比較からであり、あくまでも焦点の中心はリチャード二世です。
この点では、先に書かれたシェイクスピアの『リチャード三世』とよく似ており、シェイクスピアは『リチャード二世』および『リチャード三世』を書いていた時点では、歴史の因果関係より人物描写に魅力を感じていたと思われます。
材源との葛藤
『リチャード二世』と『ヘンリー四世』との差異は、どうして生まれたのでありましょうか。Andrew Gurr という英国のシェイクスピア批評家は、『リチャード二世』の材源として、クリストファー・マーローの『エドワード二世』を挙げていませんが、英国のシェイクスピアの材源研究家である Geoffrey Bullough は、『リチャード二世』は『エドワード二世』からの影響が、かなりあったと論じています。おそらく作品の雰囲気という面において、シェイクスピアの『リチャード二世』は、マーローの『エドワード二世』にもっとも近いと思われます。両作品とも、弱い王とその没落を扱っており、王位を離れた後のリチャードとエドワードは、観客から大きな同情を買うように描写されているからです。
シェイクスピアは『リチャード二世』を書くとき、ホリンシェッドを参考にしていますが、おそらくそれは表面的な事実関係のみで、作品の質に影響を与えるほど、ホリンシェッドからの借用はないように思えます。作品の中の年代等は、大体ホリンシェッドの『年代記』によっていますが、作品の全体的雰囲気は先行の劇、マーローの『エドワード二世』から大きな影響を受けているように思えます。
また、ホリンシェッドの『年代記』とホールの歴史書は、リチャード二世の取り扱いに大きな違いがあり、前者はリチャード二世の廃位において、議会の役割が大きかったことを述べ、ホールの歴史書は、廃位の問題を個人的な資質の所為であると描写しています。この点では、シェイクスピアは、ホリンシェッドよりは、ホールの歴史書に近いと考えられますが、シェイクスピアの意図は、議会という劇の雰囲気にあまり関係のない要因を絡ませず、リチャード二世の廃位は、純粋に彼の個人的資質および彼とボリンブルックとの争いの結果と描きたかったのではないかと思われます。
このことからも『リチャード二世』は 、ホリンシェッドからの影響はあまり大きくなかったと考えられます。しかし、シェイクスピアが『ヘンリー四世』に取り掛かったとき、彼の脳裏には、ホリンシェッドの『年代記』が存在し、その歴史書が示す独自の歴史観に捕えられていたようです。中産階級出身である『年代記』作者グループは、様々な人物達によって構成されており、彼らはいろいろな歴史的資料を、第二版『年代記』に投入し、雑多な統一のない歴史書を作り出していきます。
ホリンシェッド『年代記』の多義性
英国生まれでカナダに移住したシェイクスピア批評家 Annabel Patterson が使っている ”multivocality” (多義性・曖昧性) という言葉が、1587 年出版の第二版『年代記』の特徴を、一番的確に表現しているように思えます。このサイトの筆者は、以前サー・フィリップ・シドニー (Sir Philip Sidney, 1554-86) の『ニュー・アーケイディア』 (New Arcadia, fifth edition published in 1621) とシェイクスピアの『リア王』(King Lear, 1604-06) との関係を論じた論文で、シェイクスピアは『リア王』を書くとき、『リア王』に関係するエピソードだけでなく、シドニーの『ニュー・アーケイディア』全編の書き方・雰囲気から影響を受けたことを証明しようとしたことがあります。それと同じように、シェイクスピアは『ヘンリー四世』以降の第2 四部作を書くとき、『年代記』の中にある関係のある歴史的記述からのみ影響を受けたのではなく、第二版『年代記』全体の書き方そのものから、大きな影響を受けていると思われます。
第二版『年代記』が、多義性・曖昧性を持つようになった原因は、作者グループがほとんど中産階級の出身でありながら、様々な社会的・宗教的背景を持っていたことが挙げられます。例えば、1577 年に Description of England を書いた ウィリアム・ハリソン (William Harrison, 1534-1593) と第二版『年代記』の主幹編集人であった エイブラハム・フレミング (Abraham Flemming, 1552-1607) は、両者とも熱心なプロテスタントでありましたが、異なった宗教的信念のため、お互いが政治的に異なった方向へと向かっていくことになります。
またジョン・ストー (John Stow, 1524-1605) は、作家グループの中でただ一人平民出身でありましたが、1568 年にはエリザベス女王を非難するローマ・カトリックの宣伝文を持っていた罪で枢密院から取調べを受けたこともありました。1569 年には彼の家の捜索で、当時の政府にとって危険な書物が発見されたこともありました。また、アイルランド史の最初の部分を書いたリチャード・スタニハースト (Richard Stanyhurst, 1547-1618) は 1580 年 11 月 26 日、枢密院のロバート・ビール (Robert Beale, 1541-1601) に尋問され、反逆罪の罪に問われていたジェラルド・フィッツジェラルド (Gerard FitzGerald, 1525-1585) をスペインに連れて行こうとした罪で投獄されています。
このように複雑な構成員を持った第二版『年代記』の作者集団は、それぞれ独自の視点を持っており、彼らが作り出す歴史書は、必然的に多義性・曖昧性を豊富に含んだものにならざるを得なかったようです。このような特徴が、シェイクスピアの『ヘンリー四世』の複雑な構成と密接な関係があるように思われます。ハル王子の複雑な性格、ヘンリー四世の政治的立場の曖昧性、フォルスタッフ (John Falstaff) という複雑怪奇な登場人物の存在、これらはシェイクスピアの作家としての成長とともに、第二版『年代記』からの影響が存在することは、間違いように思われます。
目撃証言と押しつけの歴史観
もう一つ、ホリンシェッドの歴史書に大きな特徴を与えているものは、目撃証言 (eye-witness evidence) です。ある事件が起こったとき、その近くにいた人物から得た目
撃証言を、『年代記』は豊富に載せています。そのため『年代記』の中には、民衆の目から見た歴史と、政治権力が捏造しようとする歴史が混在する結果となりました。すなわち、このような目撃証言は、当時の権力者が民衆に押し付けていた、あるいは押し付けようとしていた公式的な歴史観に、痛烈な疑問を投げかける働きをしています。作品『ヘンリー四世』の中で、フォルスタッフが世間的な通念としての「名誉」について言及する場面は、ホリンシェッドの『年代記』に掲載されている豊富な目撃証言と、通低するものを持っているように思われます。
ハル王子の悪友で脂肪太りのフォルスタッフは、『ヘンリー四世』1 部の 5 幕 1 場で、” What is honour? A word” という有名な台詞を言っています。フォルスタッフの「名誉観」は、表向きの考え方を痛烈に非難する毒を持っており、ホッツパー (Hotspur) はもとより、ヘンリー四世やハル王子が営々と築きあげようとしていた価値観を、一瞬のうちに破壊するものとなっています。このためハル王子がヘンリー五世になる時、フォルスタッフは追放されなければならなかったようです。著名なシェイクスピア学者である Jean E. Howard は、フォルスタッフを公衆の面前で追放する行為は、ハル王子が正義としての王権を演じていると評していますが、フォルスタッフを追放しないとヘンリー五世の政権は、内部から崩壊することは明らかでありましょう。
以上見てきましたように、シェイクスピアと材源の関係は、かなり緊張関係を持っていたように思えます。シェイクスピアはある部分ではそのまま材源を引用することもありましたが、材源全体の目配りを大切にしつつ、作品を築き上げて行ったと言えます。そのため『リチャード二世』と『ヘンリー四世』との作品の差異は、材源に対するシェイクスピアの態度が反映していると言っても過言ではありません。