シェイクスピアの歴史劇とその材源 (Shakespeare's Histories and their Sources)
このブログの筆者は、シェイクスピアのロマンス劇に興味があって、いくつかの論文を書いたが、1997 年にロンドンに 1 年間留学し、『ヘンリー五世』 (1599年) の芝居を何度も見たことから、歴史劇に興味が移っていった。留学から帰ってから定年退職まで、歴史劇を中心に研究を続けた。数日前に、パソコンにある過去資料を見ていたら、大学教授の現役のとき、学生に話した覚書があったので、再構築してみた。興味のある方は、ぜひ一読してほしい。
歴史劇について
歴史劇とは、イギリスの歴史を扱った作品で、種本 (source) は ラファエル・ホリンシェッド (Raphael Holinshed,?-1580) の Chronicles of England, Scotland, and Ireland (1577年、増補1587年) と エドワード・ホール (Edward Hall, 1496-1547) の The Union of The Two Noble and Illustre Families of Lancaster and Yorke (1548年) が中心で、シェイクスピアはある箇所では、種本とほとんど同じ表現を用いている。
シェイクスピアが歴史劇を書こうと思ったのは、当時のイギリスが三等国から一流国家へ変貌しようとしていたからである。国民が、自国の歴史に興味を持ち始めていたからである。そのきっかけになった出来事は、1588 年にスペインの無敵艦隊を、イギリス海軍が打ち破ったことであるが、これを契機に、イギリスは政治的にも経済的にも一流国になり、それに呼応して歴史劇が作成されるようになる。
また先輩作家であるクリストファー・マーロー (Christopher Marlowe,1564-1593) の影響も見逃せない。彼の作品『エドワード二世』 (1592年) は、一般の人から熱狂的に受け入れられた。
マーローやシェイクスピア以前の演劇は、聖史劇 (mystery play) 、奇跡劇 (miracle play) 、道徳劇 (morality play) が中心で、人々にキリスト教の教理をやさしく解説したものが多かった。言い換えれば、人間を描いていなかったと言える。人々の関心が、宗教から人間に移って始めて、エリザベス朝演劇が花開いたと言える。興味が宗教から人間へ転換したことは、旧弊な価値観と宗教への批判精神が芽生え、より人間中心の演劇が生まれてきたと言える。
シェイクスピアの歴史劇には、第一四部作と第二四部作があり、次のとおりである。(第一四部作)『ヘンリー六世』 (part 1, part 2, part 3ー1590年から92年), 『リチャード三世』(1592年から93年)。(第二四部作)『リチャード二世』(1598年), 『ヘンリー四世』 (part 1, part2ー1597年), 『ヘンリー五世』(1599年)。
第一四部作の最後の作品は、『リチャード三世』であるが、この作品でヨーク家とランカスター家の融和の象徴的人物として、ヘンリー七世 (1457-1509) が登場する。第一四部作のあらすじは、ヨーク家とランカスター家の争いであると要約できるが、最後には両家の和解で締めくくり、イギリスの繁栄を示唆して終わっている。
第二四部作は、『リチャード二世』で始まるが、主人公のリチャード二世は、「王権神授説」 (the divine right of kings) の理念を、根本から揺るがすような一生を送る。臣下であるボリンブルック (Bolingbrook) から王権を奪われ、最後には殺害される。王権を奪ったボリンブルックは、後にヘンリー四世となるが、不正な手段で王権を奪ったことに、死ぬまで良心の呵責を感じ、十字軍遠征を熱望する。しかしさまざまな政治的軋轢のために、十字軍遠征ができない。
ヘンリー四世の死後、ヘンリー五世はフランスを攻め落とすことによって、イングランドの精神的融和を果たす。すなわち、国民の目を海外に向けることによって、国内部の統一を、成し遂げたのである。第二四部作の締め括りとして、ヘンリー五世を描いたシェイクスピアの意図は、明確である。過去の偉大な王を、イギリス国民に呈示することによって、イギリスの偉大さを観客に植え付けたかったのである。
第一四部作と第二四部作の質的差異
さて、第二四部作の『リチャード二世』と、そのあとの作品『ヘンリー四世 1部、2部』との作品の質的差異には驚かざるを得ない。『リチャード二世』の直線的な筋とは異なり、『ヘンリー四世』では、ハル王子の放蕩生活と父王であるヘンリー四世の政治的苦闘が、同時進行で描かれ、一方が他方を照射する形を取っている。ハル王子の放蕩生活には真実と虚偽の姿が混在しており、ヘンリー四世の政治も大きな弱点を抱えている。ハル王子の偽りは、いつかは放蕩の仲間 (特にフォルスタッフ) を見捨てようと決意しているところであり、ヘンリー四世の大きな苦悩となる政治的弱点は、正当な王であったリチャード二世を廃位させて、彼が王位を奪ったことである。
そのため、ヘンリー四世のすべての政治的行為は、自己の政権の正当化に集中せざるを得ない。『ヘンリー四世』において、多様な視点で、歴史やその中で動く登場人物を描写するシェイクスピアの手法は、前作の『リチャード二世』よりはるかに深い歴史観を、観客に提出していると思われる。『リチャード二世』では、全ての焦点が、主人公リチャード二世に収斂し、焦点が散乱することはない。後のヘンリー四世であるボリンブルックに一時的に視点は移ろうと、それはリチャード二世との比較からであり、あくまでも焦点の中心は、リチャード二世である。この点では、先に書かれたシェイクスピアの『リチャード三世』とよく似ており、シェイクスピアは『リチャード二世』および『リチャード三世』を書いていた時点では、歴史の因果関係より、人物描写に魅力を感じていたと思われる。
このような差異はどうして生じたのであろうか。シェイクスピア批評家である Andrew Gurr は『リチャード二世』の材源として、クリストファー・マーローの『エドワード二世』を挙げていないが、シェイクスピアに関する資料を編纂している Geoffrey Bullough は、『エドワード二世』からの影響がかなりあったと論じている。おそらく作品の雰囲気という面において、シェイクスピアの『リチャード二世』は、マーローの『エドワード二世』にもっとも近いと思われる。両作品とも、弱い王とその没落を扱っており、王位を離れた後のリチャードとエドワードは、観客から大きな同情を買うように描写されているからである。
シェイクスピアは『リチャード二世』を書くとき、ホリンシェッドを参考にしているが、おそらくそれは表面的な事実関係のみで、作品の質に影響を与えるほど、ホリンシェッドからの借用はないように思える。作品の中の歴史的事実は、大体ホリンシェッドの『年代記』によっているが、作品の雰囲気は先行の劇、マーローの『エドワード二世』から、より大きな影響を受けているように思える。
また、ホリンシェッドの『年代記』とホールの歴史書は、リチャード二世の取り扱いに大きな違いがあり、前者はリチャード二世の廃位において、議会の役割が大きかったことを述べ、ホールの歴史書は、廃位の問題を個人的な資質の所為であると描写している。この点では、シェイクスピアは、ホリンシェッドよりはホールの歴史書に近いと考えられるが、シェイクスピアの意図は、議会という劇の雰囲気にあまり関係のない要因を絡ませず、リチャード二世の廃位は、純粋に彼の個人的資質および彼とボリンブルックとの争いの結果と描きたかったのではないかと思われる。
しかし、シェイクスピアが『ヘンリー四世』に取り掛かったとき、彼の脳裏にはホリンシェッドの『年代記』が存在し、その歴史書が示す独自の歴史観に捕えられていたようである。中産階級出身である『年代記』作者グループは、様々な人物達によって構成されており、彼らはいろいろな歴史的資料を第二版『年代記』に投入し、雑多な統一のない歴史書を作り出している。シェイクスピア研究家の Annabel Patterson は ”multivocality” (多義性・曖昧性) という言葉を用いているが、1587 年版の『年代記』の特徴を、もっとも的確に表現しているように思える。
ホリンシェッド『年代記』の筆者グループの思想背景
第二版『年代記』が多義性・曖昧性を持つようになった原因は、作者グループがほとんど中産階級の出身でありながら、様々な社会的・宗教的背景を持っていたことも挙げられる。例えば、1577 年に Description of England を書いた ウィリアム・ハリソン (William Harrison, 1535-1593) と第二版『年代記』の主幹編集人であったエイブラハム・フレミング (Abraham Fleming, 1552-1607) は、両者とも熱心なプロテスタントであったが、異なった宗教的信念のため、お互いが政治的に異なった方向へと向かっていくことになる。また ジョン・ストウ (John Stow, 1524-1605) は、作家グループの中でただ一人平民出身であったが、1568 年にはエリザベス女王を非難するローマ・カトリックの宣伝文を持っていた罪で枢密院から取調べを受け、1569 年には彼の家の捜索で、当時の政府にとって危険な書物が発見された。
また、アイルランド史の最初の部分を書いた リチャード・スタニハースト (Richard Stanyhurst, 1547-1618) は 1580 年 11 月 26 日、枢密院の ロバート・ビール (Robert Beale, 1541-1601) に尋問され、反逆罪の罪に問われていた ジェラルド・フィッツラルド (Gerald Fitzgerald, 1538-1583) をスペインに連れて行こうとした罪で投獄されている。アイルランド史を引き継いで書いた ジョン・フッカー (John Hooker, 1527-1601) は、イギリスの植民地主義者として、スタニハーストとは反対の立場を取っている。
第一版ホリンシェッドの『年代記』のスコットランド史では、最も重要視された書物は ジョン・メイジャー (John Major, 1467-1550) の歴史書であったが、その後を継いでスコットランド史の 1571 年から 1586 年までを書いた フランシス・タイン (Francis Thynne, 1544-1608) は、それでは視点が限定されすぎると考えて、ジョン・レスリー (John Leslie, 1527-96) のラテン語で書かれたスコットランド史 De Origine, Moribus, et Rebus Gestis Scotorum(1578年)や ジョージ・ブキャナン (George Buchanan, 1506-1582) のスコットランド史である Rerum Scoticarum historia (1582年) も参考にして、歴史的視野の拡大に努めている。このように複雑な構成員を持った第二版『年代記』の作者集団は、それぞれ独自の視点を持っており、彼らが作り出す歴史書は、必然的に多義性・曖昧性を豊富に含んだものにならざるを得なかったようである。
目撃証言
もう一つ、ホリンシェッドの歴史書に大きな特徴を与えているものは、目撃証言である。これは第一版と第二版『年代記』に通じて言えることであるが、ある事件が起こったとき、その近くにいた人物から得た目撃証言を、『年代記』は豊富に載せている。そのため、『年代記』の中には民衆の目から見た歴史と、政治権力が捏造しようとする歴史が、混在する結果となった。すなわち、このような目撃証言は、当時の権力者が民衆に押し付けていた、あるいは押し付けようとしていた公式的な歴史観に、痛烈な疑問を投げかける働きをしている。
フォルスタッフの追放
作品『ヘンリー四世』の中で、フォルスタッフが世間的な通念としての「名誉」について言及する場面は、ホリンシェッドの『年代記』に掲載されている豊富な目撃証言と、通低するものを持っているように思われる。 (What is in that word honour? What is that honour? air.) フォルスタッフの「名誉観」は、表向きの考え方を痛烈に非難する毒を持っており、『リチャード二世』と『ヘンリー四世』に登場する熱血漢のホッツパー (Hotspur) はもとより、ヘンリー四世やハル王子が営々と築きあげようとしていた価値観を、一瞬のうちに破壊するものとなっている。このためハル王子がヘンリー五世になる時、フォルスタッフは追放されなければならなかったようである。アメリカのシェイクスピア研究科 Jean E. Howard は、フォルスタッフを公衆の面前で追放する行為は、ハル王子が正義としての王権を演じていると評しているが、フォルスタッフを追放しないと、ヘンリー五世の政権は内部から崩壊することは明らかであろう。
