英語の歴史
英語における重要な時期
英語の歴史においてもっとも重要な時期は、① 5 世紀から 6 世紀にかけてジュート族、サクソン族、アングル族がブリテンに移住した時期、② 597 年に 聖アウグスティヌス (Saint Augustin, ?-604) がイングランドに来てキリスト教化したこと、③ 9 世紀におけるヴァイキングの侵入、④ 1066 年のノルマン征服、⑤ 1362 年の宮廷での弁論は英語で行なうことという法令発布、⑥ 1476 年にウィリアム・カクストン (William Caxton, 1422-91) がウェストミンスターに印刷所を創設したこと、⑦ 16 世紀にルネサンス文化が花開いたこと、⑧ 1611年に欽定約聖書が出版されたこと、⑨ 1755 年に サムエル・ジョンソン (Samuel Johnson, 1709-84) の英語辞書が出版されたこと、⑩ 17 世紀に北アメリカ、南アメリカに進出したこと、⑪ 18 世紀にインド、オーストラリア、ニュージーランドに進出したことです。
ジュート族はユトランド、アングル族はシュレースヴィヒ、サクソン族はホルシュタインに、ブリテン島侵入以前はそれぞれ住んでいました。イギリス国民の歴史を書いた最初の歴史家である聖ビード (Saint Bede, 673? -735) によれば、449 年にジュート族のヘンギストとホルサが、サネット島のエブスフリートに、侵略したとされています。後にジュート族はケント、南ハンプシャー、ワイト島に定住しました。サクソン族はテームズ川から南の残りの地域と、現代のミドルセックスとエセックスに定住しました。アングル族は、残りのイングランドすべてと、北はフォース湾までに定住しました。
ラテン語とゲルマン語では、アングル族の名前は Angli で、古英語のとき Engle (主格)、Engla (所有格)と変化し、 “Engla land”は、3 つの部族の故郷をあらわしていました。そしてアルフレッド大王 (Alfred the Great, 849-899) やラテン語文法を著したアルフリック (Ælfric of Eynsham, 955-1010) は、彼らの言語を “Englisc” と呼びました。しかしながら、全ての文献はジュート族、アングル族、サクソン族それぞれが、自分たちの言語を持ち続けていたことを示しています。
ノルマン征服以降の英語
1066 年に、ウィリアム征服王 (William the Conquerer, 1027-87) は、ヘースティングズでイングランド軍を破り、1066 年から 87 年までイングランド王になりましたが、その結果ウェストサクソン王国は覇権を失い、文化と学問の中心は、ウィンチェスターからロンドンに移りました。13 世紀末以降には、古いノーサンブリアン方言は、スコットランド語とイングランド北方言に分割されました。古いマーシア方言は 、東ミドランドと 西ミドランドに分割され、サクソン語は地域的に縮小しました。ケント方言は、話される地域が広がりました。もっとも重要であった西ミドランド方言は、フランス語やスカンディナビア語からあまり影響を受けず、中世時代に次第に標準英語へと発達していきます。
ノルマン征服の後 1 世紀の間は、ほとんどの借用語は、ノルマンディとピカルディからでしたが、ヘンリー二世 (Henry II, 1133-89) のプランタジネット王国 が、ピレネー山脈の南まで勢力を伸ばしたので、フランシアン方言がイギリス貴族の言葉に影響を与えました。10 世紀末にカペー王朝 (the Capetian dynasty, 987-1328) が成立して以来、政治的・文化的優勢を背景に、フランシアン方言は、現代フランス語の基礎をなす方言となりました。その結果、現代英語は、フランシアン方言から channel, chase, loyal, royal, regard, gage, guardian, guarantee という語彙を獲得しますが、それは canal, catch, leal, real, reward, wage, warden, warrant というノルマン・フランス語から入ってきた語彙と対応しています。
ヘンリー二世の息子であるジョン王 (King John, 1167-1216) 、通称「欠地王 」 (John Lackland) は、1204 年にノルマンディを失い、また1215 年にはマグナ・カルタ (the Magna Carta) を承認しています。マグナ・カルタは、国王権乱用の制限や人民の権利と自由を保障した勅許状で、英国憲法の基礎となりました。この頃、カペー朝の王が権力を増大させてきたので、フランシアン方言は優位を占めるようになりました。
一方、ラテン語は学問の言葉として、そのままのイングランドで使用されました。そのため 3 世紀の間、イングランドの文献は 3 ヶ国語 (ラテン語、フランシアン語、英語) で保存されました。例えば、隠遁生活の特徴を記した Ancrene Riwle (https://en.wikipedia.org/wiki/Ancrene_Wisse を参照) は 3 つの言語で広まっていきました。
チョーサーの時代の英語
ロンドンで生まれて死んだジェフリー・チョーサー (Geoffrey Chaucer, 1343?-1400) は、基本的には東ミドランドの方言を話しました。彼と同時代人と比較しても、彼は言語の使用は現代的でありました。彼が 20 代の頃である 1362 年に、法廷では英語を使用よう求めた "Statute of Pleading" が議会で可決され、これにより全ての宮廷の事務は、英語でされることになりましたが、保存文書はラテン語でした。
チョーサーは 4 つの言語を使いました。古典・中世ラテン語を読み、フランス語とイタリア語を話し、The Canterbury Tales (14世紀末に書かれた) や Troilus and Criseyde (1380年代半ばに完成) のような文学作品を書くときは、意識的に英語を選びました。
チョーサーが死んだ 1400 年頃から、英語は、中世英語から初期近代英語への移行期間に入ります。初期近代英語は、1500 年から王制復古の 1660 年までと考えられています。15 世紀は、3 つの主な英語の発達がありました。それはロンドン英語の勃興、印刷の発明、新しい学問の普及です。
1400 年のロンドンの人口は約 4 万人でしたが、イングランドではもっとも大きな町でした。ロンドンに続いて人口の多い都市は、ヨーク、ブリストル、コヴェントリ、プリモス、ノーリッチという順番です。ミドランド地方、東アングリア地方は、イングランドでもっとも人口密度の高い地域ですが、ロンドンへ若い移住者を供給していました。
そのころ首都ロンドンの言語は混ざり合い、常に変化していました。チョーサー時代にあった 7 つのながい母音は、その頃にはすでに変化しており、/i:/ と /u:/ の二重母音化は、他の 5 つのながい母音にも変化をうながしました。この顕著な出来事は、大母音推移 (Great Vowel Shift) と呼ばれています。
古典学問の復活と英語
古典学問の復活が、ルネサンスの一つの特徴でありますが、ルネサンスは 14 世紀ころからイタリアで始まり、フランス、イングランドへと広まりました。この時期、学識のある人々が、ギリシャ語に興味を持ち始めました。その中には、トマス・モア (Sir Thomas More, 1478-1535) 、エラスムス (Desiderius Erasmus, 1466-1536) などがいました。1500 年頃から、聖ポール寺院の主席司祭であった ジョン・コレット (John Colet, 1467-1519) は、ギリシャ語で書かれた新約聖書の使徒パウロの手紙を説明することで、信徒を吃驚させましたが、彼より前に就任した司祭は、ギリシャ語を知りませんでした。それはラテン語で十分だったからです。ロジャー・ベーコン (Roger Bacon, 1217-94) などの数少ない中世の宗教人は、自由にギリシャ語が読めましたが、普通の司祭は、ギリシャ語が分かりませんでした。
中世の教育で教えられていた科目は、文法 (grammar)・修辞 (rhetoric)・論理 (logic) ・算術 (arithmetic)・音楽 (music)・幾何学 (geometry)・天文学 (astronomy) ですが、その 7 科目の名前は、すべてギリシャ語が語源であり、フランス語から英語に入ってきたものです。この事実から、学問の分野では、ルネサンス以前から、ギリシャ語が重要な働きをしており、それがルネサンスで花開いたことがわかります。
ルネサンスの学者は、言語に対して自由な態度を取っていました。彼らはフランス語を通してラテン語を借用したり、直接ラテン語から借用したりもしました。ラテン語を通してギリシャ語を借用したり、ギリシャ語から直接借用したりもしました。ラテン語は最早、教会のラテン語に限定されていませんでした。全ての古典ラテン語も含んでいました。
ある時期には、全てのラテン語は潜在的に英語となりました。ラテン語が、そのまま英語として使用されたこともありました。consolation, infidel は、フランス語かラテン語から入ったか特定できません。abacus, arbitrator, explicit, gratis, imprimis, item, memento, memorandum, neuter, simile, videlicet などの言葉は、直接ラテン語から入りました。
フランス語から英語に入ってきた言語は、もう一度ラテン語から借用され、二重語 (同語源異型) という現象が起こりました。次のペアの英語は、最初の語がフランス語、後の語がラテン語から導入されたものです。benison and benediction; blame and blaspheme; chance and cadence; count and compute; dainty and dignity; frail and fragile; poor and pauper; purvey and provide; ray and radius; sever and separate; strait and strict などがそうです。kingly や lawful にあたるラテン語の形容詞は、三重語を産出しました。それは real, royal, regal と leal, loyal, legal です。これらは最初アングロ・ノルマン語から借用し、次に古フランス語から借用し、最後に直接ラテン語から借用した結果です。
英語散文の発展
16 世紀の初めから、英語散文は急速に近代化しました。1525 年に、イングランドの文筆家であり軍人でもあるジョン・バーナーズ (John Bourchier, 2nd Baron Berners, 1467-1533) は、フランスの年代記作者であるジャン・フロワサール (Jean Froissart, 1337-1405) の『年代記』を英語に翻訳しました。また、 ウィリアム・ティンダル (William Tyndale, 1492-1536) は、新約聖書を英語に翻訳しました。1611 年の欽定訳聖書の 3 分の 1 は、ティンダルの訳であるとされています。1525 年から 1611 年までが 「チューダー朝の黄金期」 (Tudor Golden Age) であり、その最高峰がシェイクスピアです。
この頃の作家は、ラテン語と英語の間で揺れていました。トマス・モアは Utopia をラテン語で書いています。この本はトマス・モア の生存中に、フランス語に翻訳されましたが、英語に翻訳されたのは、彼の死後数年経ってからです。いかに英語が軽視されていたことか分かるでしょう。フランシス・ベーコン (Francis Bacon, 1561-1626) は、On the Dignity and Advancement of Learning を 1623 年にラテン語で書きました。英国の医師・解剖学者で血液循環を発見した ウィリアム・ハービー (William Harvey, 1578-1657) は 1628 年に、 On the Motion of the Heart and Blood in Animals をラテン語で著しています。
詩人のジョン・ミルトン (John Milton, 1608-74) は、Paradise Lost のような英詩は、英語で書きましたが、政治論文はラテン語で書き、オリヴァー・クロムウェル (Oliver Cromwell, 1599-1658) とラテン語で文通をしていました。また、英国の物理学者・数学者のアイザック・ニュートン (Sir Isaac Newton, 1642-1727) は、Principia をラテン語で書きました。
以上、簡単に英語の歴史を紹介しましたが、大学受験生や英語に興味を持たれている方への参考になれば幸いです。
(Encyclopaedia Britannica Online を参考にしました)
