鹿児島の火山灰 (Volcanic Ash in Kagoshima)
2023 年 9 月 3 日付の毎日新聞に、鹿児島の火山灰についての記事があった。
鹿児島は、福岡県のある国立大学の大学院を卒業して、大学の教師になって、最初の赴任地であった。大学時代に、鹿児島出身の同級生から、鹿児島では桜島が噴火したとき、傘をさして歩くと聞いたことがあるが、まさかそんなことがあるはずはないと、頭から信じていなかった。
いざ鹿児島で大学教師として暮らしてみると、火山灰の多さには辟易した。公舎の周囲に蓄積した火山灰を集めると、10 袋以上の分量になった。
だが鹿児島では最近その火山灰を缶詰にして発売して、好評を博しているらしい。
A southwestern Japan city has turned troublesome volcanic ash into a hit product by canning it, and thanks to social media hype, the souvenir has recorded explosive sales.
(訳) 日本の南西部の市では、厄介な火山灰を缶詰にしてヒット商品に変え、SNSで宣伝されたので、その土産が爆発的な売り上げを記録した。
桜島の灰を缶詰にして販売するという発想は、垂水市の障害センターの職員であった。垂水市は、錦江湾を挟んで、鹿児島市の対岸に位置している市で、鹿児島県ではもっとも人口の少ない市である。
The city of Tarumizu, located east of Sakurajima, decided to turn this problem into an opportunity. Since 2010, the Shiroyama Gakuen center for people with intellectual disabilities has produced cans filled with 100 cc of volcanic ash, priced at 110 yen (about 75 cents) apiece including tax. According to Takuto Kubota, 29, a support staff member at Shiroyama Gakuen, ash piled up on the rooftops of the city hall, nearby schools and supermarkets is collected, dried and filled into cans after debris is removed.
(訳) 桜島の東に位置する垂水市は、この問題をチャンスに変えることにした。 城山学園障害者センターでは、2010 年から火山灰 100 cc 入りの缶を、税込 110 円 (約 75 セント) で製造している。 城山学園の支援員である久保田拓人 (29歳) によると、市役所や近隣の学校、スーパーマーケットの屋上に積もった灰は、がれきを除いたあと、集めて、乾燥し、缶詰めにされる。
垂水市の例に触発されたかどうか分からないが、鹿児島市でも火山灰に因んだ T シャツやトートバッグを発売したようである。
Meanwhile, the prefectural capital Kagoshima also released T-shirts, hoodies and tote bags in August 2022 inspired by special plastic bags to collect volcanic ash, and 98 items had been sold by the end of the year. Yumie Arimitsu, director of the city's public relations strategy office, said, "We want to use these goods to promote the 'magma city,' which coexists with a volcano."
(訳) 一方、県庁所在地の鹿児島市でも、2022 年 8 月に火山灰を回収する特殊なビニール袋から影響を受けた T シャツやパーカー、トートバッグを発売し、年末までに 98 アイテムを販売した。 鹿児島市広報戦略室の有光由美恵所長は「火山と共生する『マグマシティ』の売り込み に使用したい」と話している。
就職して最初の数年間お世話になった鹿児島県が、なんらかの形で話題になるのは、嬉しいことである。
そ れにしても、私の拙い授業を聞いてくれた、学生たちは今どうしているだろうか。鹿児島を離れて福岡県の大学に転職した後は、仕事と子育てに忙殺されて、鹿児島を訪れることは一度もなかった。同僚として働き、大変お世話になった先生も、今では年を召されて認知症になられたと聞いたことがあるが、たとえ認知症でも元気で生きてほしいと願うばかりである。