姫路城 (Himeji Castle)

姫路城 1993 年世界遺産 (文化遺産) に登録 白鷺城、白鷺城とも呼ばれる

 

 JTB 企画の「旅物語」で、姫路城、有馬温泉、竹田城、城崎温泉、天橋立をめぐる、2 泊 3 日の団体旅行に参加した。ご一緒した人員は総勢 16 名で、最少携行人員が 15 名なので、あと 2 名申し込みがなかったら、中止になるところであった。

 2024 年 6 月 10 日は、朝から気温があがり、姫路城に着いたときは、30 度を越していた。

 姫路城の大手門まで、添乗員さんに案内してもらい、それから天守閣まで、6 階分を登った。急な階段で、気温も上がっていたので、汗をかいた。日頃の運動不足がたたって、天守閣に登ったときは、息が切れていた。

 天守閣に登ったときには、下界の美しさに圧倒された気がした。とにかく雄大であった。

姫路城の歴史

 私は歴史に興味があるので、姫路城に住んだ当主はどのような人物か知りたくて、インターネットで姫路城を調べてみた。Himeji Castle History には、次のような記述があった。

The earliest surviving contemporary reference to a fortress at Himeji occurs in 1561, in records kept at the Buddhist temple Shōmyōji. The fortress was controlled by the Kuroda clan, a samurai family active during the civil wars of the sixteenth century. A Kuroda leader, Kuroda Kanbei (1546–1604), served as a lieutenant to Toyotomi Hideyoshi (1537–1598), the warlord who brought most of Japan under his rule at the end of the sixteenth century.

(訳) 姫路の要塞に関して、もっとも早い残存する当時の出典は、1561 年で、称名寺に保管されている記録にある。その要塞は、16 世紀の内乱の間活躍した武家である、黒田一族によって管理されていた。黒田家の棟梁である黒田官兵衛は、16 世紀の終わりに、日本のほとんどを支配した将軍豊臣秀吉の補佐役として仕えていた。

豊臣秀長と木下家定による統治

 その後、豊臣秀吉は、姫路城を異母兄弟の豊臣秀長や義理の弟の木下家定に統治させた。

Hideyoshi made Himeji his base of operations as he consolidated his hold over the western end of Honshū. He constructed a three-story keep surrounded by stone walls and established a market to encourage development in the surrounding villages. When Hideyoshi later moved his base to Osaka Castle, he appointed close associates to oversee Himeji: his half-brother Hidenaga (1540–1591), followed by his brother-in-law Kinoshita Iesada (1543–1608).

(訳) 秀吉は、本州の西端の把握を確立したとき、姫路を作戦基地とした。彼は、石の壁に囲まれた三階建ての城砦を築いて、周囲の村の発展を促すために市場を設けた。後に、秀吉が本拠地を大阪城に移したとき、姫路を監視するため近親者を指名した。彼の異母弟秀長、そのあと、彼の義理の弟木下家定であった。

 1600 年の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、姫路城と播磨を、義理の息子である池田輝政に与えた。

Ieyasu gave Himeji Castle and the surrounding province of Harima to his son-in-law Ikeda Terumasa (1565–1613). Terumasa immediately ordered a major renovation of the castle and built moats and earthen embankments around the adjoining town. His clan also ruled the nearby provinces of Bizen and Awaji, making the Ikeda clan the most powerful force in western Japan.

(訳) 家康は、姫路城と播磨の周辺の地域を、義理の息子である池田輝政に与えた。輝政に、即座に、姫路城の大改修を命じて、濠をめぐらし、隣接する町の周囲に土堤を築いた。池田家は、備前と淡路の近くの地域も統治して、池田家を西日本では、もっとも権力のある有力者とした。

姫路城の戦略的価値

 面白いことに、姫路城は戦略上重要な土地なので、適切な後継者がいなければ、領主は他の土地に移動させられた。姫路城ほど、持ち主の変わった城はないようだ。

The lord of Himeji changed more frequently than those of most domains. In other parts of Japan, child heirs could become provincial lords, but Himeji’s military importance meant it could not be left in the hands of a child. When a lord died without an adult heir, his clan was immediately transferred elsewhere.

(訳) 姫路城の領主は、他の領域の領主よりも、頻繁に変わった。日本の他の地域では、後継者が子供でも、領主になれたが、姫路の軍事上の重要性は、子供の手に姫路を任せるわけにはいかなかった。領主が大人の後継者に恵まれないときは、一族はすぐに他の地域に移らされた。

インバウンドの影響

 それにしても外国人の見学者が多かった。特に、中国の方が多くて、あちらこちらから中国語が聞こえて来た。インバウンドで日本の景気が良くなれば、これに越したことはない。株式会社 JTB 総合研究所の記事には、「観光庁の調査によると、2015(平成27)年の訪日外国人1人当たりの旅行支出額は176,168円、旅行消費額は3兆4,771億円と推計されている」と説明されている。

 姫路城は、景観がよいが、天守閣に登るのに、たいへん苦労した。身体の不自由な方やご年配の方は、天守閣に登るのは困難であろう。エレベータなどを設置すれば、もっと訪問客が増えるであろう。

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