シェクスピア作品における嫉妬 (Jealousy in the works of Shakespeare)

 1564 年から 1616 年まで生存したシェクスピアは、人間の様々な感情を作品の中で扱っているが、彼が嫉妬についてどのように描いているか見ていきたいと思います。シェイクスピアが、嫉妬について深く掘り下げた作品は、1604 年に書かれたとされる『オセロ』(Othello) と 1610 年頃に書かれたとされる『冬物語』(The Winter's Tale)です。『オセロ』は有名な作品であり、ほとんどの人が聞いたり、本で読んだりしているのではないかと思いますが、『冬物語』のほうは知っている人は少ないでしょう。サッポロビールが、冬の限定版として、「冬物語」という銘柄のビールを売り出していますが、もちろん、シェイクスピア作品の題名から取ったものであることは、言うまでもないでしょう。

「嫉妬」という感情

 それはさておき、嫉妬とはどのような感情であろうか。小学館の『国語大辞典』をひくと、「自分よりすぐれたものをうらやんだり、ねたんだりする気持ち」あるいは「自分の愛する者の心が他に向くのをうらみ憎むこと」と書いてあります。もう少し抽象的な言葉で言えば、自分のものであると思っていたものが、他人に勝手に使用されたことから引き起こされる感情とも言えます。シェイクスピアは作品『オセロ』の中で、嫉妬のことを「青い目を持った怪物」 (Gree-eyed monster) と形容していますが、嫉妬の恐ろしい性格をよく表現していると思われます。

オセロの嫉妬

 オセロがデズデモーナ (Desdemona) に嫉妬するのは、彼女の愛情が副官であるキャシオー (Cassio) に移ったと、オセロが思ったからであり、もちろんイアゴー (Iago) がその時に重要な働きをします。『冬物語』の主人公であるレオンティーズ (Leontes) が嫉妬を感じるのは、彼の妻であるハーマイオニー (Hermione) が、友人のポリクシニーズ (Polixenes) を好きになり、彼を殺してシシリーの王位を奪おうとしていると邪推したからであります。一方は部下と妻、一方は友人と妻という身近な人間に嫉妬を感じることが多いようです。夏目漱石の『こころ』も友人間の嫉妬を扱っており、古来より友人と一人の女性を奪い合うというケースは多いようです。夏目漱石の『行人』はあろうことか、兄の一郎が、弟の二郎を自分の妻が愛しているのではないかと思い、嫉妬に狂います。

家父長制

 それでは、最初に『オセロ』において嫉妬がどのように描かれているか見てみましょう。デズデモーナの父親であるブラバンショー (Brabantio) は、自分の娘と勝手に結婚したオセロに向かって、” Look to her, Moor, have a quick eye to see:/ She has deceiv’d her father, and may do thee.” (I.iii.292-3) 「ムーア人よ、彼女には気をつけろ、人を見抜く鋭敏な目を持て。父親を騙したのだからお前も騙しかねない」と予言とも忠告とも取れるせりふを言います。彼の言葉は、おそらくオセロの無意識に眠っていた思考を、言い表したもので、女性は男性の信頼を裏切るものだという考えが、男性の無意識には刻印されているようです。男性は浮気のしほうだいで、女性が浮気をすると罰せられるのは、今日の男女同権時代には合わない考えですが、シェイクスピアが活躍していたエリザベス朝やジェイムズ朝時代は、当たり前の思考方法でした。それは家父長制が当時の一般的な考えであり、男性中心の時代であったからです。家父長制で一番大切なことは、正当な子孫を残すことで、それには女性の貞潔が重要になります。

 このような家父長制の考えに縛られて、オセロも行動しているので、彼がデズデモーナに貞潔を求めるのは、当然の成りゆきでしょう。家父長制が女性の貞潔に依存しながら、その基礎がかなり危ういということは、次の Marilyn L. Williamson の言葉からも察せられます。 (The Patriarchy of Shakespeare's Comedies -Wayne State U. P., 1986)

The nightmare of the patriarchy’s dependence on creating female nature is that the unchaste wife will bear false generations because we live on a bawdy planet.

家父長制は、女性の貞潔という幻想に、しがみついている男性側の妄想かもしれません。

ムーア人という立場

 それからもう一つ、オセロがデズデモーナに対して嫉妬を感じる原因を持っています。それは彼がムーア人、今日で言えば、黒人であったと言うことです。今でこそ人種差別など非難されていますが、当時のエリザベス朝では、肌の色の違いは決定的な人種差別を引き起こす要因でした。おそらく当時の観客は、白人であるデズデモーナと黒人であるオセロが結婚したという事実に当惑したことでありましょう。しかもデズデモーナは、ベニス公国の元老院の娘であり、いかにオセロが武勇にすぐれていると言っても、彼の相手としてデズデモーナは不釣り合いと考えれることが多いでしょう。それだからこそ、ある登場人物が、オセロが魔法を使って、デズデモーナを誘惑したと思ったのです。オセロの嫉妬が誘発される原因は、家父長制と彼の肌の色からくる劣等感です。イアゴーがいかに弁舌に優れていようと、これらの誘発原因がなければ、あれほどやすやすと、デズデモーナの不倫を、オセロを信じ込ませることは出来なかったでしょう。

部外者の立場

 それともう一つ重要な側面は、家父長制はヨーロッパ文明の思考形態であり、ムーア人であるオセロとは一見関係ないと思われるが、その文明に部外者 (stranger) であるからこそ、なお一層その文明が醸し出す雰囲気に、馴染もうとする傾向があるようです。日本でも外人の方が、日本人以上に日本のことを知り、日本の文化を吸収しようとしていることがあります。オセロもベニス公国の基本的な考えである家父長制に、内部の人間以上に過剰反応したとしても、珍しいことではないでしょう。"stranger" という言葉は、日本語に直せば、「他者」という意味で、どのように努力しても、内部には入り込めない人間のことを指しますが、この境界線上でオセロは、心情的にいらいらしていたはずです。

 これだけの要因があったからこそ、たった一枚のハンカチで、イアゴーはオセロを疑心暗鬼の固まりにすることができたのです。おそらく皆さんは、現実にはそんなことが起きるはずはないと、思っているかもしれませんが、思いこみというのは激しいもので、オセロのことを笑えなくなります。「人間は見たいものを見る」と心理学では言っていますが、自分の考えに合うような現実を、人間は見ているものです。反対から言えば、自分の思考に合わない現実は、無視することを人間は平気でしているのです。オセロはデズデモーナが自分のような黒人を真剣に愛するはずはないと思っているからこそ、イアゴーの策略にまんまとはまったわけです。「目に見える証拠」をオセロはイアゴーに要求しますが、本当のところは、「目に見える証拠」などどうでもよかったのかも知れません。彼は自分の心の中に思いこんでいることを、思いこみたかったようです。

絞殺は言語能力の圧殺

 オセロはデズデモーナが浮気をしていると完全に思いこみ、彼女を殺そうとします。彼の口実は、「これ以上デズデモーナが男を騙さないように」というものです。この彼の言葉こそ、家父長制の思考形態そのものです。社会の安全を確保するためには、デズデモーナを殺さなければならないと、彼は思いこみます。そして彼が妻を殺すのは、寝室の場面です。ここでも当時の観客は戸惑いを感じたはずです。黒人が白人の、それも身分の高い女性を首を絞めて殺しているのですから、観客に複雑な反応を引き起こさないはずはありません。人種差別意識の強い観客であれば、なおさらオセロに対する反発は強かったはずです。ここで注意すべきことは、オセロが首を絞めてデズデモーナを殺すことです。首を絞めるということは、女性の言語活動を奪う象徴的な行為です。彼が信奉している家父長制では、女性の言語能力が、一番扱いにくいものであり、そのために彼はデズデモーナの首を絞めることによって、女性の持つ言語能力を圧殺したかったようです。

『冬物語』の嫉妬

 次に『冬物語』における嫉妬について考えてみましょう。主人公のレオンティーズは妻のハーマイオニーが友人のポリクシニーズを愛しているのではないかと思い、嫉妬に苦しみます。そこで彼は忠実な家臣であるカミロにポリクシニーズを殺すように頼みますが、カミロはその命令を実行しません。カミロ (Camillo) はポリクシニーズと一緒にボヘミアに行ってしまいます。レオンティーズはあとに残ったハーマイオニーを裁判にかけて殺そうとしますが、アポロの神託がハーマイオニーは罪がないと断定したので、やっと彼女の無実を信じるようになりますが、その時ハーマイオニーは心労のために死んでしまいます。実は本当は死んでいなくて、最後に復活することになっています。『冬物語』の嫉妬と『オセロ』の嫉妬との違いは、レオンティーズの嫉妬には、王位継承の問題が絡んでオセロの嫉妬よりも複雑になっていることです。言い換えれば、オセロの嫉妬は人種問題も絡んできますが、単なる男と女の愛憎のもつれと言えますが、レオンティーズは王位継承という問題のため、彼の嫉妬は複雑な様相を取るようになります。Derek Cohen ("Patriarchy and Jealousy in Othello and The Winter's Tale", MLQ 48, 1987) という批評家は、オセロの嫉妬は論理的で、レオンティーズのそれは感情的だと論じております。

感情と論理

 しかし、一概にそうとは言えないのではないかと、私は思います。人間は感情的になればなるほど、論理で感情を押さえつけ、その感情をコントロールしようとするようです。オセロの論理といっても、「これ以上デズデモーナが他の男を欺かない」ために殺すというもので、これはとても論理的とは言えません。私の考えでは、オセロとレオンティーズはどちらも感情的だと思います。レオンティーズの嫉妬が、オセロの嫉妬よりも感情的だと、D. コーヘンが考えたのは、『冬物語』の言語構造に原因があるのかもしれません。ハーマイオニーの罪が実際に本当かどうかということが、レオンティーズにも観客にも曖昧にされているかぎり、レオンティーズの論理が介入する余地はまったくなく、ただ感情的にハーマイオニーや周囲に対処するしか方法がなかったようです。オセロとレオンティーズの嫉妬の違いは、王位継承という政治的な問題が入り込んでいるかどうかということで、感情的という尺度では、その違いを計ることはできないでしょう。

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