内田樹氏の英語教育

内田樹著 新潮社刊行『日本の身体』
内田樹氏は日本における現代思想家の代表と目される人であるが、長年、大学教育に携わっておられたので、教育に関する論考・講演も多い。このブログでは「東京私学教育研究所所報」(第84号)に掲載された英語教育についての講演について触れてみたい。2018年6月12日に講演された論考を、2019年春に掲載されたものである。内田樹氏のこの講演は、英語教育者だけではなく、すべての教育者に読んでほしいものである。
講演の歴史的背景を記すと、大学入試問題に民間の英語検定試験を導入しようと、文部科学省が提案をしていたころである。ご承知のように、この試みは受験生の混乱を招くという理由で、正式に却下された。この間の事情は、興味あるものであるが、他の機会に触れてみたいと思う。
講演の中で、特に、私の注意を引いた箇所は次のような文章である。少し長くなるが引用しよう。
僕は武道を教えていますけれども、それは今の子供たちに「君たちが自然だと思っている身体運用以外の仕方がある」ということを教えるためです。身体の使い方は言語と同じように構造化されています。子供たちが現代的な言語運用のルールに緊縛されているように、現代的な身体運用のルールに緊縛されて、それが自然だと思って暮らしている。すべての人間は自分と同じように身体を使って外界を感じ、身体を動かしている、そう素朴に信じきっているわけです。人間の身体は太古から現代まで、世界中どこでも「同じようなもの」だと信じきっている。でも、彼らの身体運用はまさに2018年の現代の都市で暮らしている子供たちに選択的に強制された「奇妙な」身体の使い方なのです。一つの民族誌的奇習なのです。歩き方も、座り方も、表情の作り方も、声の出し方も、全て集団的に規制されている。
それとは違う身体の使い方があることを、例えば中世や戦国時代の日本人の身体の使い方があることを僕は武道を通じて教えているわけです。子供たちをその文化的閉域から解放するために武道を教えているわけです。君たちは学べば、普段の身体の使い方とは違う身体の使い方ができるようになる。その「別の身体」から見える世界の風景は彼らがふだん見慣れたものとは全く違ったものになる。それは外国語を学んで、外国語で世界を分節し、外国語で自分の感情や信念を語る経験と深く通じています。自分にはさまざまな世界をさまざまな仕方で経験する自由があること、それを子供たちは知るべきなのです。
結局、教育に携わる人たちは、どんな教科を教える場合でも、おそらく無意識的にはそういう作業していると思うのです。子供たちが閉じ込められている狭苦しい「檻」、彼らは「これが全世界」だと思い込んでいる閉所から、彼らを外に連れ出し、「世界がもっと広く、多様だ」ということを教えること、これが教育において最も大切なことだと僕は思います。
外国語教育は、武道を教えることと同じく、これまで思い込んでいた思考から抜け出す手助けをすることであると、内田樹氏は語る。確かにそうで、英語を学ぶことは日本語の思考枠組みから離れて、より自由に考えることを可能にする。言語は、現実を切り取る道具であるが、日本語には日本語の切り取り方があるし、英語には英語の切り取り方がある。一生の間、一つの切り方しか知らないということは、多様な現実を一面しか見ていないことになる。ある事象を別な角度から見つける能力は、人に広い地平線を約束してくれる。
大学の教員のときに、大学執行部から第二外国語の削減を厳しく迫られたことがあった。私は英語教員で当時は研究院長の職にあったが、未修外国語を削減することには反対であった。英語だけを習得して、他の外国語を知らないことは、知見の幅を縮小させることに繋がると考えたからだ。特に、ドイツ語に対する攻撃がすさまじかった。私は上記の理論を大学執行部へ何度も話した。会議のあるたびに、私がそのような持論を展開するものだから、おそらく当時の総長は私にうんざりされていたことであろう。しかし私の方針は間違っていなかったと今でも確信している。
私は大学で 40 年間英語教育に関わってきたが、その間、英語読解を中心に教えてきた。もっとコミュニケーションを重視した授業にすればよかったと、時々、後悔することがあるが、この講演を読んだ後は、学生たちの世界を少しは拡大したのではないかと、自分を慰めている。オーラル英語教育は、インターネットを聞けば、いつでも習える。だが英文を正確に理解することは、異次元の世界に参入することを意味する。狭苦しい「檻」から学生を少しでも解放したと思えば、私の教育生活も無駄ではなかったことになる。