渡辺利夫「神経症の時代」 (The Age of Neurosis)

桜島の風景 (鹿児島観光サイト かごしまの旅 ホームページより)

 

 三十代の最初のころ、鹿児島県のある短期大学助教授から、福岡県の母校の助教授になったとき、ストレスのためか心身の調子が悪くなった。恩師が母校へ呼んでくれたことが嬉しくて、張り切り過ぎたのかもしれない。

 まもなくやけに呼吸が気になりだした。この呼吸が止まれば、すぐに死ぬことなので、それからいつも呼吸に注意をしていた。私は自分で「呼吸ノイローゼ」と称していたが、特に就寝前がつらかった。今は呼吸しているが、寝ている間に呼吸が止まり、死んでいるのではないかと考えると不安で仕方なかった。

 この状態が数年間続いたであろうか。苦しい日々であった。本来であれば、仕事にエネルギーを傾注すべき三十代の働き盛りが、途方もない思いのために、毎日をうつうつと過ごすことになった。

 あまりにも生に執着していたので、少しでも生から遠ざかる兆候があれば、見過ごしにできなかったのであろう。それから時がたった最近では、年を取ったせいか、死への恐怖が相当薄らいでいるので、「呼吸ノイローゼ」もそれほど気にならない。

 「呼吸ノイローゼ」を克服できたのは、渡辺利夫の『神経症の時代ーわが内なる森田正馬』(TBSブリタニカ、1996年)を読んだからだ。どのような経緯からこの本を購入したのか、今となっては明らかでないが、森田療法には以前から興味があったので、森田正馬の文字に惹かれて、この本を購入したのかもしれない。

 渡辺利夫先生 (この方の著書から救われたので、私は先生と呼びたい) は、東京工業大学の教授を勤められ、定年後に拓殖大学の総長をされた経済学者である。 『神経症の時代ーわが内なる森田正馬』は 1996 年出版であるから、先生が東京工業大学の助教授の時の作品である。大学教員を勤めながら、このような著書を書かれた先生は、才能豊かな方である。

 この著書の 90 ページで、私が陥っていた苦境をずばり言い当てられていた。渡辺先生は次のように書いておられる

脅迫神経症者は、苦悩の呪縛から逃れようと、抽象的知識を用いてさまざまな工夫を凝らし、しかし工夫を細心に凝らせば凝らすほど、いよいよ抜きさしならぬ苦悶にとらわれていく。このさまを、正馬は禅でいう「繋驢桔」(けろけつ) にたとえている。けつ (杭のこと) につながれた驢馬が、この杭から身を遠ざけようとしてあがき、杭のまわりをぐるぐる回転しているあいだに、ついに自分から杭に固く縛り付けられて身動きできなくなるようなものだという。自己の感情をなんらかの知識の体系から導きだした論理をもって克服しようと努力し、いっそう深い抑鬱に陥っていくことを戒めているのである。

 92 ページには次のように書いておられ、私の進むべき道を示していただいた。

煩悶とか苦悩というものは、理知をもってしてはこれから解放されることはない。煩悶、苦悩、苦痛のそのあるがままになり切ることである。苦痛になり切ってしまえば、その苦痛はすでに苦痛でないと正馬はみていた。

 その後の 93 ページから 94 ページまでは、私の肺腑を抉るような言葉であり、私の心中を見透かされたようであった。

「苦悩のあるがままになり切る」という心的態度の陶冶の重要性は、苦悩をやりくりすることなくそのままで耐え忍んでいれば、人の心は時間の経過とともに一点にとどまっていることはできず、どこか別のところに向かって流転していくはずだとみなす、正馬のもう一つの人間観に由来している。
「吾人の身体機能、精神現象は、時々刻々の絶えざる変化流動である。川の水が流れ流れて止まらないようなものである。吾人の欲望や苦痛恐怖も、決して三次元の空間のように、実体的なものとして固定的に考えてはいけない。ただ吾人はこれを想像し、思想することはできるけれども、実際の事実としては存在しない。すなわち欲望も苦痛も、時間の第四次元により絶えず変化、消長、出没するものであって、決してこれに拘泥することも、これを保留することもできない。快楽、苦痛も、ただ快楽を快楽とし、苦痛を苦痛としてそのままでよい。ことさらに快楽を大きくし、苦痛を軽くしようとしても、追ついた話ではない。それは不可能なことである。ただ、ときの経過にまかせるよりほかにない」変化流転する人の心をみつめて、正馬は「すべからく往生せよ」という。往生して時間の経過に身をゆだねれば、心はそのおきどころを次々と変えていって、苦悩は過ぎ去る。

 呼吸が止まることはあり得ないのに、呼吸が止まると妄想して苦しむのは、まさに強迫神経症の何物でもない。あまりにも強い生への欲望のために、少しでも死に近づく道があれば、許せなかったのであろう。そのためか呼吸の停止というあり得ないことを想像して苦しんでいた。

ブログを書くために、この本を探したが、どこかに行ったのかないので、うろ覚えで書くが、ある女性が寝る前に心臓が止まるのではないかという恐怖に悩んでいた。その女性に森田は「心臓を止めてみなさい。どのように止まるか、今度私に報告してください」と言ったようである。その女性は次の診察で笑いながら「心臓を止めることはできませんでした」と森田に報告したそうだ。それから心臓神経症は彼女にまったく起きなかった。

 私の呼吸神経症も同じで、呼吸が止まることを正面から受け止めることが肝要であった。そうすると人間の常で、呼吸のことを考えることはやめて、他のことを考えるようになる。人間の心理は一か所に留まることはない。いつも変転しているようである。呼吸恐怖症から逃れようと、様々な創意工夫をしている間は、呼吸の観念から離れることはできないが、呼吸の観念にこちらから飛び込んでいくと、呼吸への恐怖は消えていく。

 最近、禅に凝って、時々座っているが、数息観ができない。数息観とは、呼吸に合わせて一から十まで数を数え、心を静かにする手法であるが、それが三か四で雑念が起き、数を忘れてしまう。若い時の呼吸恐怖症は、完全になくなっている。

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